JOURNAL Vol.13:リナ・ボ・バルディを探る
名前や略歴、作品については文献から知ることができますが、その人がどのような環境で、どのような人生を生きたのか。そうした人間としての輪郭は、作品や年譜だけではなかなか見えてきません。本人が残した言葉や、実際に時間をともにした人々の証言に触れることで、初めて近づける部分があります。

ブラジル・モダニズムを代表する建築家のひとり、リナ・ボ・バルディ。
MASPやSESC Pompéiaをはじめ、20世紀の建築史に残る仕事は広く知られていますが、彼女自身もまた、自らの人生について多くの言葉を残しています。
『文学的履歴書(Literary Curriculum)』
※本稿は、リナ・ボ・バルディによる複数の自伝的テキストをもとに再構成されたコラージュ形式の回想文です。
『私はローマのプラティ・ディ・カステッロ(Prati di Castello)で生まれた。そこは、ローマがイタリアの首都となった頃に形成された新興の住宅地だった。
若くありたいとは思わなかった。欲しかったのは「歴史」だった。25歳のとき、回想録を書こうとしたが、それを支える材料がなかった。
子どもの頃は、ボルディゲーラ、ニース、カンヌといったフランス国境沿いの町を訪れるのが楽しみだった。ときにはアブルッツィ地方に住む、医師だった母方の祖父を訪ねて、タリアコッツォという美しい町にも行った。オスティア近くの海にもよく出かけた。
母の反対を押し切って舞台や軽演劇をよく観に通った。叔父がジャーナリストだったので、舞台裏にも連れて行ってくれた。俳優たちと親しくなり、映画館にも頻繁に通った。ドイツ、アメリカ、フランスの映画を観て、イタリア映画の遅れを痛感したのを覚えている。
私は「美術高校」で4年間学び、建築史や幾何学的デッサンを身につけた。その後、ローマ大学の建築学部に進んだ。そこではグスタヴォ・ジョヴァンノーニやマルチェッロ・ピアチェンティーニらの影響が強く、建築史が重視されていた。ローマという都市の特性もあり、古代遺構の研究に多くの時間が割かれていた。
しかし、ファシストによって修復された遺跡には息苦しさを覚え、大学卒業後、ローマを離れてミラノへ向かった。イタリア全体が停滞していたなかで、ミラノだけは創造的な熱気をまとって動いていた。
その後、ジオ・ポンティの事務所に入り、実務を学んだ。彼は『ドムス』誌やミラノ・トリエンナーレを牽引し、イタリアの職人技や手工芸文化の価値を見直し、高める活動に尽力していた。彼は私に「給料は払えないが、好きに働いていい」と言った。
仕事は朝8時から深夜まで、土曜も日曜も休まず働いた。ティーカップや椅子、ファッション、小さな建築プロジェクト、温泉施設アバーノの設計まで手がけた。さらに、トリエンナーレの運営や雑誌編集を通して、「現実の問題」と直接向き合うようになった。
ジオ・ポンティは、私を「最後のヒューマニストのひとり」と評した。建築家ジュゼッペ・パガーノのようなライバルたちは「確かに最後のひとりだ」と、皮肉を込めて語ったという。
1940年のトリエンナーレの直後、戦争が始まった。ポンティの助手として匿名で展示に関わっていたが、状況は一変した。「実践の時代」は終わり、「理論の時代」が始まった。私はミラノで設計事務所を開いたが、空襲により仕事は激減し、その代わりに雑誌や新聞でイラストレーターとしての活動を増やした。そのひとつが、ポンティが創刊し、のちに離れた『スティーレ』誌だった。
1941年から1943年にかけて、『テンポ』『グラツィア』『ヴェトリーナ』といった週刊誌に寄稿し、『ドムス』誌の別冊『クアデルニ・ディ・ドムス』ではリサーチやスタディを担当した。「クラフトマンシップと工業デザイン」に関する研究にも関わり、『イルストラツィオーネ・イタリアーナ』でも仕事をしていた。住まいは「プリンチペ・ディ・サヴォイア・ホテル」だった。
1943年7月、ファシズム体制が崩壊。8月13日の爆撃で事務所を失い、ポンティの素晴らしいスタジオを去ることになった。私は『ドムス』誌の運営を任され、世界大戦とドイツ占領下のなかでその任にあたった。ベルガモに本部を置いた戦時編集部では、過去の号を再編集しながら刊行を続けたが、やがて共和国の命令により発行停止となった。
戦時下の一年は、通常の五十年に匹敵すると言われる。人々の判断は、未来においても価値を持ちうる。私は爆撃と機関銃のなかで、「生き延びること」こそが最優先なのだと確信した。しかも、無傷で。
どうすれば生き延びられるか。私は「客観性と理性」こそが答えだと考えた。感傷的な失望に浸るのではなく、理性的な行動こそが世界を救うと信じた。生きるに値する課題として、私は共産党に参加した。
もはや世界は抽象的な文学ではなく、即時的な現実そのものとなった。イタリアではアウレリア街道やエミリア街道、シチリア、ロンバルディア、さらにプロヴァンスやブリタニーをはじめ、ヨーロッパ各地で「人間の家」は崩れ落ちた。あれほど確かで、砦のように強いものだった家が、このように消えてしまうとは思ってもみなかった。
家々は、長い年月のなかで、世代が変わるたびに少しずつ姿を変えてきた。19世紀のフリンジ付きのソファは姿を消し、新しい世代が英国風のマホガニー家具やスカイブルーのサテンを取り入れ、オパリンのランプは大きな金色の金属製シャンデリアへと替わった。
さらにその次の世代は、当時の新しい流行に合わせて、古い家具とモダンなものを組み合わせるようになった。ルイ・フィリップ様式のソファのそばには、白くラッカー塗装された打ち出し鉄のモダンランプが置かれ、壁には新しい仕上げやシュルレアリスムの絵画が加えられた。やがて、そうした住まいはより近代的な建物へ移り、アーモンドグリーンのシルクの大きなカーテンや、白いバロック風の漆喰装飾が加えられた。少し「デカダン」だと評されながらも、そこには独特のスタイルがあり、人々に愛され、雑誌にも紹介された。
しかし、ある朝、それまで「私たちの家」だったものは、もう存在していなかった。瓦礫のなかで、筋の入った白い漆喰の小さな破片を拾い、それがローズ色のランプの一部だったことに気づいた。あれほど美しかった家を、ほかの灰色の瓦礫の山と見分けるものは、もう何ひとつ残っていなかった。私たちの家は、とびきり美しかったのに。
戦争によって、それまで永続するものと考えられていた建築や住まいの価値観は崩れた。家のなかにも、権威や格式を示すためだけの、記念碑のような家具はもはや必要ではない。そうした誇示的な価値観もまた、戦争を生み出した時代の精神と無関係ではなかった。
家具は、人に「仕える」ものでなければならない。椅子は座るためにあり、テーブルは食事をするためにあり、アームチェアは本を読み、くつろぐためにあり、ベッドは眠るためにある。
そうして家は、永遠に存在する重々しい「住処」ではなく、人間に寄り添い、人のために役立つものとなる。そして人間と同じように、いつか消えていくことのできる存在になる。
ヨーロッパでは復興が進み、新しく建てられる家々は、簡素で、明るく、慎ましいものになっていった。
おそらく人間は、そこで初めて何かを学んだのだろう。
炎に包まれた夜が明けた朝、自分の家の瓦礫を前にして、人は気づいた。家とは、そこに住む人そのものであり、「自分自身」なのだと。
1944年、サロ政権下の監視を避けながら、ミラノの建築家たちは地下で集まり、新たな組織の基礎を築こうとしていた。それが「建築家協会組織(Associated Architects’ Organization)」であり、のちに「建築研究運動(Movimento Studi Architettura)」へと発展していった。
晴れやかな青空と幸福に包まれるはずの数年を、私は地下で過ごしていた。爆撃や機関銃から逃げ回りながら、命をつなぐ日々だった。ナチスの北イタリア占領が進むなか、「地下に生きる人々」の姿は象徴的となっていた。
ドイツ軍、特に都市計画者たちは、戦争終盤に原爆開発を競い合っていたが、ファシストたちはテラスから探照灯と飛行機の轟音を眺めながら、破壊のスペクタクルに酔いしれていた。私は『ドムス』に都市建築批評を寄稿していたが、それがゲシュタポの注意を引き、間一髪で地下へ逃げ延びた。
隠れ家では、ロンドンのBBC放送を聴くのが日課だった。国際放送は毎日、ベートーヴェンの交響曲第5番で始まり、スターリングラードの抵抗に関するニュースが続いた。私たちは、その音に希望を重ねていた。
1945年、戦争が終わると、人々は破壊ではなく「構築」に目を向けるようになった。私たちは皆、建築の意味を問い直し、希望とともに新たな都市を描き始めた。私は記者や写真家としてイタリア各地を訪ね、戦争で傷ついた町や人々を記録した。そして、「建築の問題を暮らしの中に引き寄せる」ことの必要性を実感し、それを誰もが議論できる媒体―雑誌の立ち上げを考えるようになった。
私が尊敬していたのは、“不屈の建築家たち(the INTRANSIGENTS)”だった。静かに、しかし揺るぎない信念で新しい建築を信じる彼らは、まるで古代の聖人のようだった。彼らはタッセルやフリンジ、金箔のカーテン、無意味な装飾、陳腐な中国磁器といった「過去の虚飾」に剣をふるっていた。
もちろん、本物の古いものには敬意を払っていた。ただし、石膏や段ボールで作られた偽物の中に時代を閉じ込めてしまうことは、人間の長い歩みを後退させることになる。無知や軽薄さが進歩の妨げになることを、私たちはもっと自覚すべきだと思っていた。
そんななか、私はローマでブルーノ・ゼヴィと出会った。彼は建築評論家であり、ユダヤ人として迫害を受けたのち、アメリカ第5軍と共に帰還したばかりだった。
ゼヴィは「オーガニック・アーキテクチャー協会」の設立を目指しており、私たちは共同で建築誌『A Cultura della Vita』を創刊した。これは『ドムス』と同じミラノの出版社から発行され、私は『ミラノ・セーラ』紙の建築評論欄にも招かれたほか、「国民再建会議」にも参加した。
1946年、再び過去の亡霊たちが戻ってきた。古い名前、古い政党、キリスト教民主主義が復活し、私たちが二度と戻らないと信じていた過去の人物たちが再び権力を握った。
私は学生時代から敬愛していたP.M.バルディと結婚した。彼は進歩的で、芸術を推進する最も近代的なイタリア人ジャーナリストだった。
その年、私たちは彼にとってなじみ深い南米へと旅立った。
10月、船でリオ・デ・ジャネイロに到着した。眩しいほどの光。海から見た教育・保健省の建物は、白と青の大きな船のように空へと浮かび上がっていた。私は、戦後初めて本当の光を見たような感動を覚えた。ここは想像を超える国だった。リオは破壊されてなどいなかった。
欧州の目には、スラムとモダン建築の共存は混沌に映るかもしれない。しかしそれは、むしろ画一的な超高層建築への抵抗にも見えた。教育省の建築群が森の中から静かに姿を現し、まるで音楽のように周囲に響き渡っていた。
当時、ニューヨーク近代美術館(MoMA)は『Brazil Builds』を刊行していた。そこに示されていたのは、形而上学でも理論でもなく、人間的な「幻影」だった。戦後まもないその時代に、それはまるで死からの逃避路のような灯台の光だった。
IAB(ブラジル建築家協会)のリオ支部では、ルシオ・コスタ、オスカー・ニーマイヤー、ホシャ・ミランダ、アトス・ブラーン、ブルレ・マルクスらに迎えられた。コズメ・ヴェーリョには、画家のポルチナリ、彫刻家ランドゥッチ、マルコス・ジャイモヴィッチなど、ブラジル建築の第一世代の前衛が集っていた。そこには階級の壁のない、知性と人間性の輝きがあった。コーヒー、サトウキビ、そして人々の力によって支えられた文化だった。
1947年、シャトーブリアンからの提案で、私たちはリオまたはサンパウロでの美術館設立を検討することになった。私はリオを愛していたが、資金はサンパウロにあった。戦時中に夢見ていた希望が現実になったと感じ、私たちはブラジルにとどまることを決めた。
1951年、私は正式にブラジル市民になった。生まれた場所を選ぶことはできないが、生きる場所を選ぶことはできる。私にとってブラジルは「選び取った祖国(Country by Choice)」であり、カリリからミナス・ジェライスの三角地帯まで、都市でも田舎でも、この国のすべての場所に自分の居場所を感じている。』

晩年のリナと過ごしたマルセロ・フェハス
1977年、まだサンパウロ大学建築都市学部の学生だったマルセロ・フェハスは、SESC ポンペイアのプロジェクトでリナと出会い、その後、約15年間にわたり仕事をともにし、リナの死後にはその仕事や思想を伝え、財団設立に携わった重要人物のひとりです。
フェハスは、ファシズムと戦争を経験したリナについて、彼女がそこから、人生は常に危ういものであり、だからこそ「本当に不可欠なもの、生命に関わるもの」について考え、行動すべきだという感覚を得たのではないかと振り返っています。そして、そこから彼女の「深い客観性と詩的感覚」が同時に生まれたと記しています。
「彼女にとって建築とは人生だった。人間の生活のための建築をつくること。空間を設計し、そこへ介入し、状況をつくり、人生を誘発する。だからこそリナの建築を、人のいない写真だけで語るべきではない」とマルセロは述べています。
リナ自身が残した人生の記憶と、長く彼女の傍らにいた人物の証言を重ねていくと、作品からでは見えにくかったひとりの人間の姿が少しずつ浮かび上がってきます。
建築家が何をつくったのか。その背景で、どのような時代を生き、何を見て、何を失い、何を信じたのか。そうした人間の経験と創作との関係を知ることも、作品を現在へ受け継いでいくうえで大切なことだと考えています。
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▶︎関連ページ
過去のJOURNAL一覧
JOURNAL Vol.5 : リナ・ボ・バルディ – サンパウロ美術館
JOURNAL Vol.6 : リナ・ボ・バルディ – ベナンの家
JOURNAL Vol.7 : リナ・ボ・バルディ – SESC ポンペイア, 1977|ブラジル建築の公共性
JOURNAL Vol.9 : 名作家具を未来へつなぐ |モダニズム家具の継承と工房