Isamu Kenmochi

Isamu Kenmochi

イサム・ケンモチ

1912 - 1971

日本・東京生まれ。

剣持勇は、日本を代表するインテリアデザイナー、プロダクトデザイナーであり、いわゆる「ジャパニーズ・モダン」と呼ばれるデザイン潮流の礎を築いた先駆者のひとりです。戦後の混乱期から高度経済成長期にかけて、剣持氏は日本の工業デザインや住環境の整備に深く関わり、家具の設計にとどまらず、展示デザインやショールームの演出、さらにはデザイン教育の制度設計にまで活動の領域を広げながら、生活空間全体の質の向上を目指した「総合的なデザイン」を追求しました。

1932年に東京高等工芸学校木材工芸科を卒業した剣持は、商工省の工芸指導所に入所し、翌年には来日していたドイツ人建築家ブルーノ・タウトのもとで、椅子における「規範原型」の研究に従事しました。素材や構造、造形に対する基本的な考え方は、この時期に大きく培われたと考えられています。

戦後は、進駐軍住宅のための家具設計と量産の指導に携わり、短期間で30点以上の家具を設計するなど、日本における量産家具の品質基準の確立に大きく貢献しました。これは復興期の実務であると同時に、工業化と手仕事の共存を模索する剣持氏の思想的出発点でもありました。

1950年には、来日していた彫刻家イサム・ノグチ、建築家の丹下健三とともに、竹を素材とした椅子の共作を行い、素材・造形・構造の融合に挑戦しました。この経験を通して、剣持は日本固有の素材と文化を、いかに現代の生活に根づかせるかという課題に本格的に取り組むようになります。1952年には、渡辺力や柳宗理らと共に日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)の設立に協力し、日本における工業デザインの制度化と職能化を推進しました。そして1955年には剣持デザイン研究所を設立し、家具から空間設計まで一貫したビジョンのもと、幅広いプロジェクトに取り組み始めます。

剣持は、デザインにおいて単なる造形美だけでなく、使い手の身体や習慣、空間との調和を重視しており、家具を「場」を構成する要素のひとつとして捉えていました。1950年代のショールームでは、「ジャパニーズ・モダン(またはジャポニカ)」というコンセプトのもと、竹、和紙、漆、籐など日本的な素材を用いた作品を多数発表しています。

また、剣持は海外との交流にも積極的で、アスペン会議や世界デザイン会議などに日本代表として出席し、チャールズ&レイ・イームズ夫妻やイサム・ノグチらとの対話を通じて、国際社会における日本デザインの意義を発信しました。特にイームズ夫妻との関係は深く、剣持は「彼らの仕事には、飾らず人柄が滲み出ている」と語っています。

代表作のひとつである《ラタンチェア》(1958年)は、日本の伝統素材である藤を用いながら、モダンなフォルムと快適な座り心地を実現し、1964年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久収蔵品に選定されました。そのほかにも、ホテルオークラの客室家具、羽田空港貴賓室の内装、国際見本市の展示空間、公共施設のサイン計画など、戦後日本の風景をかたちづくる数々のプロジェクトを手がけました。

剣持勇の仕事には、日本の風土と素材に対する深い理解と、それを現代の生活に根づかせるための探究心が通底しています。彼のデザインは、機能的であると同時に詩的であり、日本的でありながら国際的でもあります。今日においても、剣持の思想と実践は世界中のデザイナーに大きな影響を与え続けており、ジャパニーズ・モダンをかたちづくった中心的存在として、あらためてその意義が見直されつつあります。